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プロレスの歴史と時代


キン肉祭

5月29日(金)は記念日制定後、3度目の“キン肉マンの日”(詳しくはコチラから)。昨年の1度目はキン肉マン映画祭が、2度目はすき家&なか卯を運営するゼンショーとのコラボ会見がそれぞれ行われ、29周年から30周年へ、肉イヤーも行き着くところまで行き着き、3度目となる今回の記念日では、遂にプロレス・イベント=『キン肉マニア2009』が開催されることになった。

キン肉マン映画祭で、ゆでたまご嶋田先生から発せられた「キン肉マンを実際のリングに上げたい」という発言は、リップサービスでもなんでもなく、先生の悲願であり、本心だ。故に、周辺関係者は、嶋田先生からの予期せぬ発言に慌てふためき、以後“リアル・キン肉マン”の話題に触れることはタブー(というか、“できれば避けたい”的なニュアンス)として流された時期もあった。

ただ、嶋田先生は、本当に純粋無垢な人なのだ。

昨年から、「キン肉マンを好きな人だけを集めた、恩返しイベントをやりたい」という話しは何度も聞いていたし、実際に動かれていたこともあった。

その後の経緯は分からないが、察するに、ここに色んなアイデアが加わり、『キン肉マニア』に発展していったのだろう。関係者でさえ、当初は対応できずに戸惑いをみせた“リアル・キン肉マン”構想を具現化すべく、その水面下では懸命な準備を進められていたのだ。

それだけではない。

それこそ、「業界を活性化したい」といいながらも、結局は何も考えず、動かず、それでいて、自己の利益ばかりを主張するレスラー&関係者が数多く存在する業界において、昨年末の『K-1 Dynamite!!』に出場したキン肉万太郎のように、周囲の反対をおし切ってでも盛り上げ役を買って出る嶋田先生が持つ“業界に恩返しをしたい”という想い――。今回も同様に、キン肉マンをきっかけに、プロレスを観る人がいる。プロレスの楽しさを感じてくれる人がいる。プロレスを好きになってくれる人がいる――。

キン肉マンのイベントながらも、その裏テーマは(公言していたが)“プロレスへの還元”でもあったという。


グッズ売場では、KYORAKU“ぱちんこキン肉マン”のお試しコーナーもあり、ミートくんの格好をした女の子たちがファンを出迎えた
迎えた“肉マニア”当日は、平日昼間にも関わらず、会場前に大蛇の列が作られた。

実はこれ、16時から販売されるグッズ目当てのファンが1時間前から列を成し、その数は軽く300名はいたように思う。

これには驚いた。

驚いたというか、キン肉マンの存在を、少なからず見くびっていたのかもしれない。

よく集客が悪いイベントにおいて、関係者が「まあ、平日だから仕方ない」と言い訳していることを耳にすることはあったが、ホントに求心力を持ったイベントにはまず関係ない話しであり、ここに改めてキン肉マンが持つ影響力の大きさを痛感することにもなった。

“肉マニア”をプロレスイベントとカテゴライズするなら、未来永劫、2度とこのようなプロレスイベントは生まれないだろう。グッズの購入にはチケットを見せる必要があったので、グッズだけを購入して帰るというファンは、“基本”いなかったわけで、(グッズだけを目当てにやってくるファンがいるというのもすごいことなのだが)振り返っても、瞬間的にグッズが売り切れたプロレス・イベントって、90年4月の“日米レッスルマニア”くらいしか思い浮かばない。
# by a68fg46ea | 2009-10-17 15:24


東京プロレス

かつて日本プロレス社長であった豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、豊登と東京プロレスを旗揚げする。猪木はエースとして扱われ、ジョニー・バレンタインとの一戦は昭和プロレス史に残る名勝負となって一躍猪木の名を有名にした。
しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱体、豊登の横領などにより急速に業績が悪化や、「客が少ない」という理由で、興業を中止にしようとしたらそれに怒った観客がリングに火をつける「板橋事件」などにより、3か月で東京プロレスは破産し、最終的に古巣である日本プロレスに戻ることになる。
# by a68fg46ea | 2009-10-10 14:54 | 格闘技


「このメンバーが揃うのは最初で最後かもしれない」(蝶野)

10月6日(火)、来週12日に開催される蝶野正洋デビュー25周年特別興行「ARISTRIST in 両国国技館」に関する記者会見が新日本プロレス事務所で行なわれた・
 この会見には、“闘魂三銃士&旧全日本プロレス四天王”と“第3世代越境トリオ”が激突する「ダブルメインイベントII 蝶野正洋デビュー25周年記念試合」に出場する蝶野選手、武藤敬司選手、小橋建太選手、中西学選手、小島聡選手、秋山準選手が出席。夢の6人タッグマッチへ向けて、それぞれ意気込みを語った。
■蝶野選手のコメント
「あと1週間に迫りました。非常に豪華なメンバーが揃って、色んな話題も飛んで、自分としては満足しています。このそうそうたるメンバーが揃うのはもしかしたら最初で最後かもしれない、というぐらいの組み合わせができて、非常に感謝しています。小橋選手とは、この間の大阪(プロレスリング・ノア10月3日大阪府立体育会館大会)で組ませていただいて、タッグとしていけるなという感じがしました。武藤さんとの連携はもう何年もやっていないですけど、ウチのチームに関しては問題ない。(横から武藤に『信用してないって言ってたじゃん(笑)』と言われ)表面上は信用していないけど(笑)……ほとんど信用していない(笑)。基本的にこっちはいいとこ取りを始めると思うんですけど(笑)、試合的には業界内ではなくてプロレス以外の人たちに今回の大会を発信して観てもらいたい。対戦相手の中西選手も小島選手も秋山選手も、今年に入って一度(シングルの)ベルトを巻いているトップクラスですから。まぁ競い合う点がどこになるかと言えば、もしかしたらプロとしての華の部分かなと。これからプロレス外のところへアピールしていかないといけない。プロレスが持っている華やかさというか、そういう部分が競争になるのかなと思います」
■武藤選手のコメント
「蝶野に信用されてない武藤敬司です(笑)。蝶野の25周年という記念のイベントだから、それなりにお膳立てをして(蝶野に『してくれるの?』と言われて)最後はかっさらっていこうと(笑)。この中で俺が年長者だけど、俺の個人的なテーマは若さ。このそうそうたるメンバーの中で、俺が一番若いということを証明したいと思います」
■小橋選手のコメント
「蝶野さん、25周年おめでとうございます。お祭りのような組み合わせなんですけど、このお祭りを素直に楽しみたいと思います。よろしくお願いします」
■中西選手のコメント
「蝶野さんにとって記念すべき大会と言っていますけど、自分にとっても記念すべき大会なんで。ここから始まる何かがあると思うので。まぁ思いっきり記念の大会とはいえ、デカいものをぶち上げて闘っていきたいと思います」
■小島選手のコメント
「8月に小橋さんと試合をさせてもらった時に感じた高揚感といいますか、それが今回3倍に膨れ上がったような感じでいます。初めて中西選手と秋山選手とタッグを組むということで、どのようなタッグになるかはちょっと分からないですけど、自分が一番目立てるように頑張りたいと思います。蝶野さんの25周年ということで、私が蝶野さんからフォール勝ちできるような結果を目指して頑張ります」
■秋山選手のコメント
「こういう素晴らしいメンバーで試合ができるのが凄く光栄に思いますし、凄く楽しみです。蝶野さんの25周年ということで、“お祝いの(ジャンピング)ニー”をぶち込みます」
 会見終了後の囲み会見で蝶野選手は、「個人的に気になるのは、長い間対戦していなかった秋山選手。G1(CLIMAX 2003)で闘ったことがあるんだけど、非常にプロレスが上手いので、どれだけ幅を広げてきているのかが楽しみ。小島選手は、三冠(ヘビー級王座)のベルトを今巻いているし、自分らが知っている小島選手ではなくなっていると思うので、その辺も楽しみにしています」と、久々に対戦する秋山選手、小島選手の印象を語った。
 小島選手、秋山選手に“第3世代越境トリオ”結成を呼びかけた中西選手は、「(蝶野たちは)一筋縄ではいかない相手。特に初対決の小橋選手とは、ずっと闘っていたい。
# by a68fg46ea | 2009-10-06 18:17 | 格闘技


三沢光晴さんの悲報とキン肉マニアについて

自分にとっては特別な興行であったが故、逆に何も書けなくなってしまったキン肉マニア。この記念すべき日のことを、自分なりにもようやく綴り終え、アップしようとパソコンに向かってカタカタやっていた矢先に飛び込んできた、プロレスリング・ノア三沢光晴さんの急逝――。

「リングドクターはいなかったのか?」、「昨今の三沢さんは、ちゃんと練習できていたのか?」、「明日の興行はどうするのだろうか?」。この後、きっと色々な議論が沸き起こるのだろう。だが、耳に入った直後は全ての力が抜けてしまった。


中学時代、学校に持ち込んだ週刊プロレスを、校内一怖い河合先生に見つかってしまった。職員室に呼び出され、直立不動の自分に、河合先生は雑誌をパラパラとめくりながら「お前は誰のファンなんだ?」と一言。

“まさか、河合先生もプロレス好きなのでは!?”と淡い期待を抱き、ちょっと嬉しそうに「三沢です!」と答えた瞬間、丸めた週プロで頭を思い切り殴られた。2代目タイガーマスクがマスクを脱ぎ、三沢光晴という名の革命を起こした直後のことだ。

あれから20年近くが経とうとしている。最後に観た生の勇姿は、今年の1.4東京ドームだった。身体つきやコンディションを全盛期のそれと比べるのは酷だが、エルボー1発の説得力に絶対的な存在感は、今も圧倒的なプロレスラーだったといえる。

ノアはどうなってしまうのだろう?

今月末で本コーナーも閉鎖となり、プロレス業界との関わりをどうすべきか。この後、下記にその葛藤――、いや、プロレスとの区切りを述べることになるわけだが、三沢さんの悲報が気持ちを揺らす。

いずれにせよ、残り2回の更新となった本コーナー。思いのままに書きたいことを書こう――。
# by a68fg46ea | 2009-10-06 12:13 | 格闘技


AllAboutプロレスコーナーの最後に――

小学校も高学年になってくると、親友宅では、彼がレンタルビデオで借りてくるアメリカのプロレスを二人で毎週観るようになっていた。

プロレスには、ごく自然にはまった。

幼稚園の頃からキン肉マンが大好きで、自由帳にはキン肉マンばかりを描き、ゲームやキンケシでも遊んでいたのだから、リアルのプロレスに対しても免疫はあったのだろう。

初めてみたプロレスビデオのタイトルは「レッスルマニア4」だった。

なんとなく名前を知っていたハルク・ホーガンが、悪者軍団を蹴散らし、綺麗なマネージャーを連れたどこか脇役っぽい筋肉隆々の男のトーナメント優勝をサポートする――。

勧善懲悪な世界に見事に魅せられた自分は、以後、プロレス番組を追いかけるようになり、少ないお小遣いをはたいては週刊プロレスを買うようになった。

運よく、その翌年にはプロレス観戦の機会がやってきた。親父に貰ったチケットは、90年4月13日、東京ドームで行われた日米レスリングサミットだった。

以降、24時間365日、プロレスのことばかりを考えた中学高校時代の6年間。当時、新日本プロレス本社の傍で小さな旅行代理店を営んでいた親父は、たびたび新日から招待券を貰ってきてくれつつ、持てる小遣いもその殆んどをプロレスへと費やした。

好んで観ていたのは、WWF(WWE)はもちろん、新日本の三銃士&ジュニア戦線や全日本では超世代軍から四天王プロレスが中心だったと思う。一言で言えば、(プロレス的には死語でもある)超メジャー志向だったのだ。

高校に入ると転機が訪れた。同級生に自分とは全く異なるタイプのプロレスファンが居た。

ヤツはインディー大好きで、ことあるごとに自分のプロレス観を否定し、反メジャー志向のような反骨心を、なぜか自分にぶつけてきては罵られ続けた。今考えてもわけが分からない。

自分はグラウンドの攻防があまり好きではなかった。語弊があるかもしれないが、いい試合に関しては否応なしに最初から最後まで惹き込まれるのは当たり前。でも、全てがいい試合である筈もなく、退屈な試合におけるグラウンドの攻防はやっぱり退屈なのだから仕方がない。

だが、ヤツはそんな自分の姿勢もこっぴどく非難した。自分はヤツが言うところの“どんな試合でも目を凝らしてみなければならない”的な考えがムカついてしょうがなかった。

ただ、所詮は高校生。他に一緒にプロレスを観る友達なんている筈もなく、結局は何度もヤツとプロレスを観に行くわけだ。

市民体育館を借りて、マットでリングを作っては本格的なプロレスごっこも沢山やった。

自分達で、ビデオを回して、音楽をかけて――。

親友との試合はうまく噛み合う。そりゃそうだ、小学生の頃から何百回と戦ってる(?)。だが、当然、ヤツとの試合はちょっと燃えた。結果を決めてはいないから、互いにいくら技を掛け合っても、2.9で返す。四天王プロレスもビックリのロングマッチが行われ、集まった他の“ごっこ仲間たち”は毎回退屈そうにしていた。

ムキになってヤツの急所攻撃を無視したこともあった。前述した通り、自分はメジャー団体が好きで、ヤツはインディー好き。自分がどこぞやのプロレスショップでレガースを買って着用すれば、ヤツはブリーフを履いてくる。妙なところで地味な意地の張り合いは続いていた。

結局はヤツの影響なのだが、高校生になってからは数え切れないほどの団体を観て回ったし、大学に入った頃には、ヤツを介して一人のプロレスラーと知り合うことにもなった。新日本プロレス学校出身で、W★INGの練習生からSGPやターザン後藤一派といった団体を渡り歩いてきた渡辺宏志(以下、ナベさん)だ。

ナベさんは、典型的な昭和のレスラーで、周りの流れに逆行し、クラシカルなスタイルのプロレスを貫いた。西村修が“無我”でフューチャーさせるもっと前の話しだ。

ある頃から、ナベさんは月に1~2度、プロレスを教えてくれるようになった。プロレスといっても、レスリングのタックルや柔道の押さえ込み、プッシュアップや腹筋といった筋トレだったが、ヘッドロックや簡単な関節技も習うことができた。

ナベさんが出場する大会は、SGPや相模原時代のターザン後藤一派、春日部インディーズアリーナで行われる興行、栃木のイーグルプロモーションに浜松にあったパンクラチオンといったいわゆる“ドインディー”の興行だったが、足しげく応援に通った。この頃には、男女問わず、日本にある殆んどの団体を生で観戦していたので網羅する幅だけは誰にも負けない自信があった。と自負している。

とにもかくにも、初めて身近にできたプロレスラーの知り合いに心は躍っていたのだ。
# by a68fg46ea | 2009-10-01 14:05

    

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